「彼らも同じ人間だから」という善意がもたらしたもの、奪い去ったものに恐れおののきます。詳細は以下から。
古い西部劇では野蛮な敵として扱われていたネイティブアメリカン(当時はインディアンと呼ばれていました)の人々。侵略者による先住民族への差別は現在でも続いていますが、過去に行われた迫害は目に余るものでした。
そんな中、19世紀後半にリチャード・ヘンリー・プラットはネイティブアメリカンも白人も同じ人間なんだと主張、それを証明するためにアメリカ連邦政府内務省の出先機関インディアン管理局(BIA)の下で1879年にカーライル・インディアン工業学校を創設し、校長に就任します。
しかしこの「同じ」という考え方の下、プラット校長が行ったのはネイティブアメリカンも白人と同じような環境を与えれば白人と同じようになることを証明しようとすることでした。彼のスローガンは「インディアンを殺し、人間を救え(Kill the Indian, Save the Man)」という極めて歪んだものだったのです。
カーライル・インディアン工業学校、そしてこれをモデルに作られた数々の「インディアン寄宿学校」ではネイティブアメリカンの子供達を親元から引き離し、数百km離れた学校に幽閉。
それぞれの部族の言葉を喋ることを禁じ、強制的に髪を西洋風に切り、スーツとタイ、女性はコルセット付きのドレスの着用を義務づけました。子供達は何年も家に帰ることを許されず、キリスト教やパン職人、水夫、漁夫、農夫などの職業訓練を施されました。
そしてプラット校長が自らの成果を証明するために撮影されたのがこれらの「劇的ビフォーアフター」写真の数々です。ビフォーの写真はいずれも1879年のカーライル・インディアン工業学校創立後、次々に訪れたネイティブアメリカンの子供達を撮影したもの。アフターの写真は1882年以降に写真家のJohn Choateによって撮影されました。
こちらは非常に有名なTom Torlinoさんの写真。アフター写真で肌が極めて白く映っているのはライティングで「白人らしく」見せるための演出です。
こちらはナバホ族の子供、若者たち。ビフォーの下段左端がTom Torlinoさん。画面上部で睨みをきかせているのがプラット校長です。また、アフターの左から3番目もTom Torlinoさんです。
スー族の少年たち。
プエブロの少年少女。
フロリダ州のサンマルコス砦の収容所から移送されたチリカウワ・アパッチの人々。彼らは故郷に戻ることを許されず、移送時の衛生状況の悪さから健康を害し、多くは生き延びることができませんでした。
こうしたアメリカ合衆国のネイティブアメリカンへの苛烈な同化政策は20世紀になっても続きました。ようやくBIAが過去百数十年にわたる部族強制移住と同化政策の犯罪性を認めて謝罪したのは20世紀最後の年となる2000年のこと。
当時のBIA副長官ケビン・ガバーは涙ながらに以下のように歴史的謝罪を行いました。
私達は二度と貴方がたの宗教、言語、儀式、また部族のやり方を攻撃することはありません。私達は二度と、貴方がたの子供を里子に出させ、自分たちを恥ずべきものと教えるつもりはありません。
もちろんこれでネイティブアメリカンの問題が終結したわけではありません。経済格差や差別・偏見を始め根強くこの問題はくすぶり続けています。
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